いろんなことを諦めて
言い訳ばっかりうまくなり
自由はどんどん遠ざかる
夕刊フジを読みながら老いぼれていくのはごめんだ
真島の詩だ。
ケガしてたり、痛みがあったり、原因不明の不調だったり、練習できなかったり、いろいろあるけど、それは全て言い訳になる。
素直に受け入れると、どんな状況でもその日のコンディションは過去の自分が作ってきたものだから、何があろうもベストコンディションなはずなんだ。
さいたまはタイムも良くなかったし、後半落ちたし、中弛みもすごかったけど、それでも思い直したり、それじゃダメだ、しっかりやろうと自分に言い聞かせたり、それができただけでも十分良い経験になった。
いやーマラソン最高!
以下
自分のさいたま国際マラソン物語。
振り返りじゃなくその日のその人のストーリーが好きだ。
2017年11月12日
さいたま国際マラソン
側から見るとどんな光景なんだろう。
動物じゃあるまいし、群れと呼んでいいものなのかどうか。
一心不乱にただ前へ、前へと進んでいるようにみえる。
身体は思うように動かないのに、決して諦めることはしない。
興味のない人からみればウォーキングデッドのゾンビの集団のようにみえるかも知れない。ゾンビとの違いはただ一点だ。
目に諦めてない光が宿ってることだ。
この大会は女性の比率は高いけれど、諦めない気持ちは男性よりも強い人たちが大半を占めている。
寧ろ男性が女性の後ろにくっついて引っ張られているシーンをよくみかけた。
1番きつい時に1番きついアップダウンが待っている。
振り絞れる力もごく僅かしか残っていないのに、眼だけはしっかりと前を見据えている人たちばかりだ。
3時間15分をきるぐらいの女性たちは、見た目は女性らしい格好をしてる人もちらほらいる。ただ眼光は鋭くタフな人たちが多い。
まるで戦士のようだ。
勝負している相手は他者ではなく過去の自分だ。
タイムの良し悪しだけをみる人もいるけれど、マラソンというのはそれだけじゃない。
寧ろタイムは後からついてくるおまけのようなもので、そういう捉え方をしないと、タイムに固執してしまうと、時間というものは、自分の手からするりとすり抜けて逃げ去っていってしまう。
ただし目標というものは必要で、何かしっかりとしたものを持っていないと、諦めという感情に支配されてしまう距離でもある。
目に全ては宿る。
諦めてしまった人たちの目と諦めていない人たちの目は力が違う。
例え歩いていても前を向いてさえいれば次に繋がる。
そういう何か伝えにくいものを持っているのがマラソンで、それを知ると楽しみは倍増する。
抜きつ抜かれつ男性女性関係なく入り乱れていた稀な大会だった。
35キロ地点。
「楽しい〜♩」と叫びながら走り去っていった女性もいた。
こういう心境はノリに乗っているときにでてくる感情で羨ましかった。
走り始める前の感覚では、悔しいけれど3時間15分を切れればいい方だった。
感覚は適当とは若干異なる。
感覚の根拠は10日前の皇居15キロビルドアップだ。
23分36秒→21分45秒→19分11秒。
注目するのは2周目で、これはマラソンペースを感覚でこんな感じかって想像しながら走った。
調子良かった頃は20分30秒前後に勝手に上がる。
この時の感覚は適当だ。
サブ3は厳しいなというのがこの時の感想。
多分22分30秒ぐらいが今のマラソンペースかも知れないなと思ったりもした。
何も考えず始めの5キロを通過したタイムがある程度の適正なタイムの指標にしている。
この感覚が研ぎ澄まされれば研ぎすまされるほどマラソンランナーになっていく気がする。
今回は21分44秒。
奇しくも皇居とほぼ同じだ。
やはり上がらない。
閾値がずいぶんと下がってしまってる感じだ。
自分で自分をコントロールするのがマラソンならこの時、22分台に落とすのが賢いやり方だろう。
でもやっぱりここまで自分の力は落ちてるのかっていうのに抵抗したいという気持ちが湧いていたのか。
ただたぶんこの感覚は間違ってはいなかったと思う。
後半失速したけれど、オーバーペースではなかった。
寧ろ程よく感覚がまだあっていた。
きつくもなく周りとの兼ね合いをコントロールしながら走れるスピード。
やっぱり走り込みが圧倒的に足りなかった。
3時間を切るのは簡単になったとこの2年間思ってたけど、やっぱり違った。
6月の柴又以降月間100もいかなかった日々が続いていた。
しかも1.5キロと短い距離の積み重ねでの月間100ぐらいだから、まともに走れてるとは言えない。
大会からも遠ざかっていた。
今、その瞬間の最善を尽くす。
それを繰り返す。
それが自分のマラソンだ。
タイムとは関係ない。
ただその頑張りの積が大きければ大きいほど、タイムが向上することも知っている。
そしてその瞬間、瞬間、最善を尽くした経験がとてつもなく自分を興奮させる。
大会から離れてしまっているとその感覚がなくなってくるんだと改めて感じていた。
25〜36キロ地点までただ脚を動かすということで頑張ることから逃げていた。
たぶん精神的な疲れなんだと思うけど、集中していない、油断してる状態、ぼーとしてるというか。
しっかり自分に言い聞かせることができてなかった。
中弛みという表現がよくあってるのかも知れない。
フルマラソンは長い。
中弛みするのは多かれ少なかれ誰にでもある。
何故か今回は、この中弛みしているときは普段のジョグのスピードで妥協してしまう傾向にあるんじゃないかと感じた。
緩い練習ばかりしていたから、この中弛みもペースがキロ5近くまで落ち込んでいた。
要はこういう状態の時は、緩い練習に身体が依存してしまう気がした。
そして36キロ地点。
マラソンを始めて初めて36キロ地点であと6キロぐらいしかないのか、すぐじゃないかって思えることができていた。
これは面白い発想の転換で、今までは35キロ以降は長いって感じていた。
35キロ以降がマラソンの醍醐味で、きれいに纏めるよりも、泥臭く必死の形相で無理やりペースを刻み続ける。
きつい時だけど、無理やり身体を大きく動かす。
それを繰り返す。
そこにマラソンの醍醐味があるんだと再認識できた良い大会だった。
身体は死んでいない。
脳が嫌がってるのを制御する習慣を、戻すことも必要みたいだ。
モチベーションとは誰かに貰うことができるものなら、さいたま国際マラソンに出ていた女性ランナーの頑張りはものすごい刺激を受けた。
撃沈しないように走るのではなく、それを超えようとする積極的なアタックを何度もしている女性が多かったのが印象的だ。
完走後北与野駅前で側からみると大撃沈してたランナーが心配で待っていたら、少なくともその瞬間は誰よりも力強く、誰よりも苦しさに耐え、誰よりもスピードがあった。
そういう頑張りが自分を勇気づける。
北与野駅前では誰よりも気力溢れていた。
だから次は自分も。
自分と同じぐらいで走ってる人たちに刺激を与えられる、そんな走りができるようになりたい。
仕事の量は変わることはないし、増えることの方が多い。休みも週に1日しかない。平日は1時間練習してしまうと食べる時間も風呂に入る時間も寝る時間もなくなってしまう。
1時間を捻り出すのが難しい状況。
それでも変わることのないものを変えようとするよりも、自分でできることをコントロールするほうが遥かに大切。
それならば今季の目標はこの少ない時間でどうすれば元の状態に戻して、更に飛躍していけるか、それ一点にかかっている。
決して負けない力を僕は1つだけ持つ。
甲本ヒロトの歌詞が心に響く。
その力を徹底的に伸ばしていきたい。
2015年
さいたま国際マラソン2時間50分
2017年
さいたま国際マラソン3時間08分
人生良い時もあれば悪い時もある。
悪い時の方が多いってことは、少ない良いことはその分、最高の思い出になってくる。
来年はぐんまマラソンでる予定なので、再来年飛躍してさいたまに戻ってきたい。
賛否両論あるさいたまだけど、最高のコースなのは間違いない。
他に知り合いで2名女性で参加していた。
1人は安定のサブ3.5。
もう1人はサブ3.15を一気に達成してきた。
これはヤバイ。
負けるぞ、おれ!
さいたまとは全く関係ないけど、この日、知り合いが神宮24時間で2位に入っていた。
40代でもまだまだいける。
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